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HOME事業内容・製品製鎖事業大阪製鎖造機株式会社の歴史
大阪製鎖 は日本の製鎖事業の草分けであるだけに、日本の近代工業史に関わる貴重な資料が数多くあります。

その中でも、事業のスタートが 大阪製鎖所  であっただけに、製鎖の歴史を学ぶのに便利であることから、大阪製鎖の歴史の錨鎖に関わる初期のころの歴史を引用させてもらいました。 学ぶところが大いにあります。

又、大阪製鎖造機は歯車工業の草分けである 溝口歯車も その歴史の原点に持っています。



日本の錨鎖工業


ダイヤモンド社 昭和44年3月1日初版発行の ダイヤモンド社編著 産業フロンティア物語 錨鎖・歯車<大阪製鎖造機> 書籍番号 D.0912 による。

日本の錨鎖製造工業は、最大の需要部門たる造船業の歩みとほぼ歩調を合わせて発達してきたといってよい。そもそも日本の近代的造船業が本格的に発達しだしたのは日清戦争(明治27年〜28年)以後であり、明治30年代にはいってからの事である。明治29年に公布された「造船奨励法」および「航海奨励法」による。政府の奨励策が大きな刺激となったのである。日露戦争(明治37年〜38年)から第一次世界大戦(大正3年〜7年)にかけては相当に発展し、特に世界第一次大戦中には大活躍し、建造量において、アメリカ、イギリスにつぎ、世界第三位に躍進するにいたった。

日本の製鎖工業も、大体この時期にその発達の端を発しているのである。大阪製鎖造機の製鎖部門の前身である、古田敬徳個人経営の「大阪製鎖所」(明治37年8月創業)こそ、まさに我が国、民間製鎖工業の草分けである。第一次大戦当時には、造船業の大活躍にもかかわらず、錨鎖の国内需要はほとんど完全に自給する域にまで達していた。もっとも、当時の錨鎖は全て鍛接錨鎖であった。鍛接錨鎖は前述のように、全部人力によるため、太い径の錨鎖をつくることはなかなか困難であった。したがって、戦艦、巡洋戦艦などの大型錨鎖は相当おそくまで輸入していた。しかも当時鍛接錨鎖の材料に適する国産品がなく、材料は全部英国品の輸入に頼らなければならなかった。大戦末期には、4インチ径ぐらいの錨鎖が出来るようになり、大型品も錨鎖の輸入は必要がなくなったが、材料だけはどうしようもなかった。こうして、大阪製鎖造機が海軍と協力、苦心研究の末、昭和6年に初めて国産鋳鋼錨鎖の製造に成功し、ここにおいて、我が国製鎖工業は、材料から製造にいたるまで完全に自立体制を整えたのである。以後、ほとんど大阪製鎖造機だけが鋳鋼錨鎖を製造し大型艦船用にずっと供給してきた。

ところが、戦後、それも昭和20年代にはいって、これまた前述のように、ヨーロッパでフラッシュバット溶接による電気溶接錨鎖が製造されるようになった。これは製造工程が簡素で、コストが安いため、強度的にその安全度が立証される事により、造船界に大歓迎され、急速に伸びていった。我が国でも、昭和33、4年ごろ、スウェーデンのアシャスベッツ社やドイツのシーメンス社のフラッシュバット電気溶接機を輸入、電気溶接錨鎖の製造を開始し、造船界の要請に応え、今日に至っている。現在では、船舶用錨鎖(けい船ブイ用には鋳鋼錨鎖が多い)には、電気溶接錨鎖を使用するよう大きく変わってきている。

株式会社大阪製鎖所の発足

古田敬徳(大阪築港が初めて築造されたときの初代技師長であり、小倉正恒退陣の後、住友合資会社の総理事となり、最高経営責任者として太平洋戦争中の住友財閥を主宰した古田俊之助(旧姓井上)はその養嗣子である)が個人経営により大阪製鎖所を創業、明治37年8月以来、大阪市西区安治川通り3丁目において鉄鎖ならびに付属品の製造に従事し、業務の進展とともに、大正4年1月、新たに同市西区春日出町に新工場を建設、当時わが国における唯一の製鎖工場の地位を占めていた。株式会社大阪製鎖所は、これを買収、改組して、新発足した。

この新会社は、日本チェイン製造株式会社を買収し、発足早々にして旧大阪製鎖所と日本チェインの当時の二大チェンメーカーを吸収、統合し、早くも我が国製鎖業界における優位を確立した。


大戦ブームによる繁忙

第一次世界大戦勃発とともに、新造船建造熱がにわかに盛り上がり、造船界も未曾有の活況を呈した中で、造船関連産業としての製鎖業もまた、一大繁忙を告げたのも当然で、中でも、旧大阪製鎖所と日本チェインの二大メーカーを統合、業界優位を確立した新生大阪製鎖所には、発足早々から海軍艦船用および商船用錨鎖の注文が殺到した。

そのころの錨鎖はすべて鍛造品で、その原料はもっぱら英・ヒングレー社の錬鉄を使っていた。大戦の勃発で、このヒングレー錬鉄が入手困難になり、錬鉄研究所を開設、製鎖材料の自給策を講じたのもこのころである。

そこで、大阪製鎖所は、大正14年1トン電気炉を新設以来海軍と協力し、輸入材料を必要としない鋳鋼錨鎖の研究を進め、正式に海軍艦艇用に採用される事となった。

大阪製鎖所の兼業部門の拡大とともに「製鎖」だけでは会社の実態にそぐわなくなり、昭和10年社名を「大阪製鎖造機」と改称した。

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